真に語りたい何か、主題を持っているか?
今日は、ぜひにと御願いして、写真評論家の椿薫さんにご登場願いました、椿さんは文学にも造詣が深く、著書に「文学と写真」などがございます。また同期に写真評論家であるところの飯澤さんがいらっしゃいます。今日は、椿さんに、「写真の主題」について語って頂こうと思っています。では、椿さん、御願い致します。
椿:
皆さん、こんにちは、椿薫です。
今日は皆さんに「写真の主題」についてお話ししたいと思います。
表現すると言うこと、別のことばで「芸術する」とは、それが欲望・失望・怒りなどの感情の結果として生じたものであれ、何かを表し、結果を残そうと思ったのなら、その中には自ずと表現に対する「主題」があるはずです。
文学においては、例えば小説という形式の中では「忘れえぬ生命の創造」がその本質としての目的であると、E・G・サイデンステッカーが言っています。
写真表現に於いても、このようなはっきりとした「目的意識」「表現主題」を持つべきであり、それを表現し得たもののみが、良い作品として、私たちの心に残り、歴史に残って行くことになるのでしょう、歴史とは私たちの心の記録なのですから。
ここで一つ明白にしておかねば成りませんが、写真と小説とは当然表現方法が違います。と言うより、ある意味正反対なものであるかもしれませんし、どちらかがどちらかの一部分かもしれません。先の「忘れ得ぬ生命の創造」は写真にとっては、その表現目的の一部であり、すべてではありません。
例えば、文学で「ものはあるべくしてある」と言ったとしますと、「我思う故に我有り」となり、それらは言葉を並べて語るしかなく、思索は次の行為として伴うものとなります。
それは写真のように、即物的に陳列するだけで、自ずと理解されると言うことはない。つまり、語らなければならず、写真の持っている本質とはちがったものです。
写真は写真で大いに語るべき主題が必要であることは勿論ですし、目的意識の明確なものが、優良・優秀な賛美されるべき作品であることに、変わりはありません。ただし、写真にはこれとはちがった主題・目的もあると言うことを述べておこうと思います。
小説における、「忘れ得ぬ生命」は人間のもつ本質的な魅力であり、人間に対する神の愛とも言うことが出来るでしょう。また、小説における主題であることにも頷けます。
漱石を持ち出すまでもなく、「意志」について語ることは主題たり得ますが、純粋に「石」についての小説は成り立たないでしょう。
写真の世界では、神の創造せしめた自然もまた、重要な主題であることに代わりはなく、サイデンステッカーが三島由紀夫に対して述べている批評が、ここでは必ずしも当てはまらない。情緒的な時代背景、うつろな風景、瞳の片隅を横切る夕景なども、写真の中では十分主題たり得るし、人々の感動の対象たり得るのです。
その「否人物的」といえる存在のなかに「永遠に忘れ得ぬ何ものか」を創造して行くことも、写真家に科せられた、重要なテーマなのではないでしょうか。
どうもありがとうございました。椿薫さんでした。
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