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個展を振り返って

個展終了後二日、三日してから会場に行ってみると、まだ会場には写真がそのまま飾ってありました。まるで今日からオープンするように。

なんだか幸せな感じがしてその場でもう一度ゆっくりと、そして改めて全作品を見つめ返してみました。

会期中何度も見ていた作品だけれど、今回はいやな感じがしなかった。こんなこと言うのはちょっと変なんですが、いくら自分の写真といっても、写真によってはなんとなく「ちがうなー」とか、「ちょっともう見たくないなー」とか、「どーもちょっとせせこましいな」とか・・、展示前にはこの作品しかないと思っていたものが、いざ展示してみると、「どーもこの作品は違うなー」というように感じることがあります。

毎回そんな写真が一枚や二枚はでてくるものなのですが、今回は何度も何度も見つめなおしたせいでしょうか、そんな写真は一枚もありませんでした。

写真とはじつに不思議なもので、同じ写真でも大きさによってずいぶんと見え方や感じが違ってくるものですが、それだけではなく実際に展示場所に持っていってみなければわからない感覚があるのです。

これは、組写真で三枚組み、五枚組み、十枚、二十枚、それ以上の枚数のものにも当てはまることで、その写真のもつ良さといいましょうか、だめさといいましょうか、真の価値といいましょうか、ふっと見えるものがある。とくに自身の作品となると思い入れがあったりで、なかなか作品の真の部分が見えてこないことが多いのですが、その会場に収まったときに独特のマッチング感や、逆に違和感を感じることがあるのです。

作品の優劣、善悪、価値の有無ということではなく、その作品の持っている個性とでもいいましょうか、そんなものがはっきりと見えてくるのです。

気の小さい作品もあれば、剛毅なもの、遠慮深げなものや、ずいぶんとふてぶてしい物など、一枚一枚にそれ自身の性格なるものがあることに今回はじめて気づいたのでした。評論家諸氏の批評眼とは別の次元の感覚、作者自身の色眼鏡で見るのともちょっと違った作品自身に個性があることに気づいたのです、これは写真の新しい見方として存在しているような気がしてなりません。

それと今回「ギャラリー新居」と出会えたことが私自身にとっては実に大きかった。いままでの写真ギャラリーでの展示はそれなりに意味のあることではあったのですが、そろそろ卒業してなにか次のステップアップを求めている矢先だっただけに、この出会いは感謝でした。またいろいろな面で勉強になったし、新居氏はじめギャラリー関係者の見識とプロ意識に感動させられました。

私が無知であることは、恥ずべきことなのですが、それはそれとして、写真を売るとはどういうことかとか、作家として生計を立てるための方法論とか、彼らからさまざまな知識を得ることで作家としての自覚と確信を新たにできたのも、彼らのおかげでした。(新居さん、正木さん本当にありがとう)

例えばエディションナンバーの意味、漠然とは知っていたこのエディションという言葉、これはいろいろな状態があるようですが、同じ絵柄の写真作品でも、その大きさが違えばエディションは新たに付けることができるとか、エディションナンバーは多ければいいというようなものではなく、おのずと常識の範囲があるとか、作者などのもつ特別な作品は別のエディションを付けることができるとか、人によってはエディションをつけない人がいるとか、累進課税のように若い番号の時には作品の値段は安く、エディション番号が大きくなるほどまた作品の値段も上げることができるとか、エディションの話一つをとっても、とても多くのことを含んでいる、これはそのときそのときに教わらなかったら、知ることが難しいかもしれません。

このような事柄ひとつとってみても今までには得ることのできない貴重な体験だったと思います。

いまは個展が終了した後の余韻・・というよりいろいろなしがらみを脱ぎ去った後のような、すがすがしい気分でいっぱいです。

さあー、つぎ、いこー。

個展について

Kot_01

みなさん、今銀座のギャラリー新居で個展やってますよー、ふるってお出かけくださいませ。

ところで、左の新聞の切り抜きは、27日読売夕刊「シティーライフ」に出ていた記事です。ここに使われた写真は、今回の個展作品としては、真っ先に出来たもので、やはり一枚選べといわれれば、この写真が紙面を飾るにふさわしいと今見ても思います。

今回の個展は、実はロダンの「地獄の門」にインスパイヤーされたわけですが、理詰めなところも実はたぶんにあって、ある意味モランディーのビンや坂本繁二郎の能面などの「物感」や岸田劉生のりんごなどにも深くかかわっているといったら、みなさんは冗談だと思うでしょうか。

ただアプローチの方向が彼らと、また後から出てくる人物たちと若干違っていて、対象物を見つめ続けてこれ以上そのものと関わることが出来ないまで、自分の感性を追い詰めてゆく方法をとってばかりいると、そこには緊張感と真剣さだけがあふれかえっていて、いってみれば真剣でのきりあいとでもいいましょうか、いつまでも続けていると疲れてしまうわけですね。

とくに写真なんかでやると、決定的な写像を定着させる瞬間まで訂正を繰り返してゆくわけで(これが絵画とは違うんです、絵画は一点一画ずつその場ぞの場で修正を加えてゆくことが出来き、出来上がったものは言ってみれば修正の塊ですね、ところが写真は固める瞬間まで写真を撮り終える瞬間まで修整し続けるチャンスはあるが、その最後の最後まで果たして実際にこれでいいのか、固めてしまう瞬間の画像なのか、という判断に苦しむわけですが、シャッターを切り終えた後には今までのありとあらゆるものが焼きついてしまいますので、修正のあとなど何にも残らないのです。これは演繹と帰納法のようなもので、優劣をつけるというようなものではない、表現手段であって、結果のよしあしにつながるものではないのです。

それを今回は右から左の一方通行的なアプローチではなく、左から右を見つめる行為があってもいいと考えたわけです。つまりさっき言ったように、劉生の「りんご」にかぶりついて食っちまうアプローチが右から左の一通だとすると、りんごが勝手に変化していってしまうのをりんご側から、りんごの裏から見据えようということなのですね。実際のりんごはほっとけば腐ってしまうわけですから、わざわざ変化をもとめずとも、一週間から二週間ばかりほっておきさえすれば、かってに変化してくれるわけですが、ここで私が言うりんご側からの変化は、これとはちがって、あくまでイメージの中でのこと、自分自身の心からの見え方のこと、そのりんごの変化を写真でつなぎとめようということなのです。

実はさらにここに自画像であるということにもう一枚味があって、変わらぬ自分を変化させる、別の自分、他人にしてしまう。しかもその変化を画像につなぎとめておかなければ、自分自身で変化しましたといっても、他人にはわからないわけですから、実像として残さなければならなかった。

つまり、今回の自画像はそのようにして生まれたもので、ただのブレボケ写真ではなかったというわけです。シンディーシャーマン、ナンゴールデンや澤田さん、森村さんたちが試みた心的、外的な自画像、ポートレートとはちがった私自身の発明した自画像表現が、今回の個展の実は一番言い表したかったことなのです。そして最終的に出来上がったものは、自分が動くことで空間を埋めながら作った立体像で、写真の彫刻だったわけです。

まあそれはそうとして、今回のオープニングの写真が出来たのでアップしておきます。本当に多くのかたがた、先輩諸氏に来ていただき、いくら感謝しても感謝しきれない気持ちで、いまもむねがいっぱいになる思いです。Kot_02 Kot_04 Kot_05 Kot_03                      

個展当日の心境

いよいよ今日の午後6:00時から、銀座のギャラリー新居で個展のオープニングパーティーが始ます。だれが来てくれるのかが楽しみです。ちょっと緊張して出番を待つ吉本興業の新人お笑いタレントという心境でしょうか。

親友からの花の贈呈、先輩諸氏の来訪、どれもこれもうれしくもあり、一方で和紙を重ねるように緊張感を心臓に積み重ねてゆくようです。

昔、一生のうちで、ただ一回だけ個展を開いた人がいました。夫婦でスピーチの時に涙しながら、よかったよかったと抱き合っている光景をみて、おおいに「しらけ」を覚えたものでした。

個展なんて、無限に繰り返していくもので、その場にとどまっているものではない、というのがそのときに私が抱いた感情です。

ある意味、今でもそれはそれで残っていて、やはり個展など作品を発表し続ける行為はアーティストとしては当たり前のことで、別段特別なものではないと思っていたのです。

でも、よーく考えてみると、作品を作り上げたときや、作っている最中に作家としての役割はすでに終わってしまっていて、というのも後は自分のイメージを形に表すだけであり、全体の質感まで決定してしまっている。

すでに完成したという満ち溢れる充足感で、その時点で自分自身に対するご褒美はすでにいただいているわけで、そういう意味では、やはり個展会場にお集まりの諸氏が、実はその場の主役であると言う、実に単純な当たり前のことに気づいていなかったのです。

彼らは、作者のためにわざわざ時間を割いて集まってくださっている。つまり、作者は愛されているわけですね、彼らに。そこで、二つ目のご褒美を頂戴しているというわけです、作者は。

お世辞であれ、真実であれ、いくらけなされでも、ほめられても、もうすでに作って発表してしまったわけですから、いまさらどうすることも出来ないという、じたばたした様子をも理解し、わかってくれて、また無償のチア・コール賛美を授けてくれる、そんな人々に感謝する以外に我が個展のオープニングパーティーであらわしうることが他にありえようかという思いがあって、先に夫婦で抱き合った先達の心境が、まったく一緒というわけではないけれども、ある意味わかる状態になっているのです、今このときに。

ひとつ、いつもはどーも人前では恥ずかしくて出来ないのですが、今日ばかりは祈らせてください、心からそうさせてください。

今日私の個展に来てくださった、諸氏諸先輩に大いなる主の祝福がありますように、

彼らの未来に発展と輝かしい平安、安らぎがありますように。

願わくば彼らの犯した罪を主が忘れ去ってくださいますように。

平安と愛と慈しみと、友愛と哀れみを主が与えてくださいますように。

願わくば、この小さきものをも主が忘れることなく、哀れんでくださり、これから先も立ち行くことができるように、導いてくださいますように。すべて主がご存知ですから。

すべてを感謝して、

主イエス・キリストの御名において、心よりお祈りいたします。アーメン

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