ちょっと一服
ずいぶんと時間は懸かったのですが最近やっと時節が煮詰まって来たと言いましょうか自分の作品へイメージと作り上げる作品との整合性、またそれに対する人々の評価などをすべて受け入れて、咀嚼し表現することに自分自身が納得出来るように成って来ました。
ひとつには作家活動と経済活動の車の両輪であったコマーシャルの理解に明確な答えを出せたこと。また自分の武器としての「撮る対象」を一つに絞り込んでもいいと思えるようになって来たことなどがあげられます。
そうすることでもう一方の作家活動における被写体にも明確な思いを込めることが出来るようになって来ました。こちらも撮る対象を明瞭に把握し、合点がいくようになってきたのです。おしなべて作家としての自覚が出来てきたともいえるでしょうか。またこの国での作家活動の原理を射程距離内に収めることが出来てきたようです。
ちょっと横道にそれますが、たとえ話です。
あるボランティア活動の集会に参加する必要があったのですがどうもあまり気乗りしない。でもその会で何かしなければならないことは理解しているのです。いやいやながら少し遅れて行ったらすでに多くの人が甲斐甲斐しく働いていました。
ある人はてきぱきと指示をだし、ある人は手際よくものを並べ、人を案内し、またある人は駐車場の車の配置に気を配ったり、買出しにいったりととてもにぎやかな状況で、後で言った私の入る余地など全くないかのようでしたが、でも何かしなければ成りません。
やっきになって仕事をみつけそれなりに調子も上げて行き、いつのまにか傍からはその会の中心人物になったように見えるまでに成っていました。
しかし本人の違和感は最初と一向に変らず傍目を気にしてはあえて流暢に振舞おうとしていました。会も終わり後片付けも最後までやり遂げ気づいたたときには私だけしかもう残っていませんでした。
ここであれっと思ったのでした。みなその会の中心人物のようであったのに結局誰一人として責任者はいない、なんだか私だけがその会の運営者だったような終わり方だったのです。
うまくいえないのですが、なんだか日々の人生なんてこんな様なものではないのでしょうか。
結局だれもが他人に依存している、知ってか知らないかには関わらず、みなお互いにもたれあっているし、そのうえ人任せだったりするのですね。「自分が自分が!」といっているうちにみんなもう帰ってしまっている。
芸術活動も然り、祭りのあとには自分しか残ってはいないのです。
結局自分のために自分を楽しませるためだけに作品作りすることが、回りまわって他人をも楽しませることになるのではないでしょうか。そして、その楽しませ方に応じて作品の評価が決まり、最終的な「お買い上げ」となる。
まあ時間のかかることではあるのですが、これがこの日本で活動する上でのマニュアルのような気がします。
いままで、人と機会に恵まれなかった私でも、いつかきっと誰かとの出会いが幸運を呼び、チャンスを与えられるかも知れません。それまでは地道に努力し、作品を発表しては皆さんの反応を気にしつつも、自分に忠実な生活を可能な限り営んで行く所存です。
だれか、パトロンになってくださいませんか。期待していますから。