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宮本輝

小説は最初の一行目で決まる、僕は本当にそう思う。

不思議にすーっと長文の中に入っていってしまうような文章もあれば

本の半分までを読み進んでもなお読み手を輪の外に押し出すような文章もまたある。

もっともそれはそれで、我慢しながらも読み進ませるのであるから、名文ではないにしても書き手の個性と評されてしかるべきかも知れない。

ある日曜日の午後、ふと立ち寄ったフリマで何冊かの単行本に眼をやった。その中の一冊の著者は以前から気になっていた人物だったので、躊躇することなく購入することにした。「宮本輝」ちょっと以前名を馳せたNKの「宮田輝」を思い出し、ふざけた名前だと彼を知らなかったときにはそう思っていた。だが彼の書いた小説のひとつを読み始めた時にはっきりとよみがえってきたのである、学生時代にある人物の詩を読んで抱いた感情と全く同じ感情が。明らかに嫉妬心ではあるが、あたかも格の違う相手に打ち負かされたときに感じる不思議な満足感にも似た様な安堵を伴った感情が・・

それは大学生のころ、ちょうど十一月の初頭あたりであったと思う。学園祭で執行委員をしていたときに同じ委員の中に「現代詩手帳」の常連、しかも撰者らに「この人は自分の世界がある、投稿などせず独自の世界を纏めればいい」とまで評されていた、K.Iがいることに気づいた。その少し前にそんな選者に評されたK.I の詩に出会ったために中学のときから書き溜めていた自分の詩のノートを焼き捨てたばかりであったから、彼を目の当たりにしたときには、ずいぶんと面食らったものだった。

「宮本輝」の小説「青が散る」をよんで、これは教科書であるなあと感じ入ったものだ。

人物表現の巧みさは、これを欠く小説の多いことでもわかるのであるが、全く舌を巻く。

今ここにもしも自分で書いた小説の山があったとしたら、また火にくべていたかもしれない。それがドフトエフスキーだったり、森鴎外だったりしたならば多分そんな感情を抱くこともないだろう。あまりにも自分とは違いすぎるからである、比べる気にもならない。

風俗習慣が違いすぎることも一要因ではあるだろう。しかし彼との少しの違い(もっともこの少しの違いが素人とプロの永遠の隔たりであることを、今は理解できるのであるが)があたかも自分を代弁してくれているように思われとても卑近に感じることでなお一層自分自身とオーバーラップして行き、最後には自分で書いているような錯覚にも陥るのである。しかし徐々にではあるが、頭の中のイメージを文章で具現化している技術的なすごさが見はじめてくると、ここでその少しの違いが永遠の違いであることに気づかされるのである。

こうして宮本輝は僕にとって名教師となった。宮田輝を抜き去っていったのである。

2008年5月
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