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バルザックが「すばらしくよくできた機械」について書き記した言葉:

「すばらしくよくできた機械」とは実に因果な商売だ。
私の言う「優雅な生活」を送る人びとからは対局にいる

法の番人面をしているけれども、実は自分たちが「労働する人間」の宝棒を上り詰めるための足台として利用するために取得したものだ

叫び、脅し、おもねって、多くの人々に「暇なし生活」を
押しつけようとする

彼らは、純粋に「労働する人間」からは一目置かれ
「思考する人間」のようで悪意に満ち
「何もしない人間」を法というむやみやたらの
凶器で悪と脅し込む

神の造った人間の未熟な心理に踏み込み、逆なでし
王侯貴族のように分別し、仲裁し判断し、結論づけようとする。

「芸術家の生活」は分からず、「優雅な生活」には生まれたときから
無縁であり、ひたすら「暇なし生活」を推し進めようとする

確かに彼らは誤解の中で一生を棒に振る

こうした連中は地球に足をつけていることが
幸せであって、宇宙天空が頭上にあることは知っているが
決して、見上げようとはしない

彼らの祖先の墓が地表のぬくぬくとした大地の上に
確実に存在しているという事実だけが慰めである

こうした連中の頭脳では、芸術家の存在は
山積みされた書類と、まだ投函されていない
請求書の束と等価であって
それ以上でも、それ以下でもない

借金して買った着物の皺を取り去ることに
その人格の大半を消費してしまっている

代々続いたあわれな百姓の鼻水のような土地を受けついだ
現代のマンション大家たちから世知辛い金品をせしめ
彼らの代理人を買って出たはいいが
こそ泥よろしく何時かはこいつらを丸裸にしてやろうと
虎視眈々と狙っている

この高級機械たちの頭脳の中に想像力を求めようとするのは無駄骨で
それでもあきらめず、開頭して脳みその節々に潤滑油を
垂らしてやろうとするのも疲れ果てる

これらの人々が晩年「優雅な生活」があることに気づき
あわてて住み替えようと全財産を投げ込んでみても
時すでに遅し、うまれついての労働階級の英雄は
最後の最後まで、Working Class Heroだ

どこか間の抜けた正装着を身にまとい
人生最終コーナーでラッパをふきならしつつ
よく肥やされた大地の寝床に帰って行く

三日もすれば、落ち葉が墓一面を覆い尽くし
彼らの痕跡は跡形もなくなってしまう

そしてまた新たな若者が
六法全書を頭上に携えながら
田舎から出てきて、都会の悪に立ち向かおうとする

いつも権力者が作り上げた法という
陳腐な鍬で、都心のアスファルトを耕そうとするのだ

スチール写真へのこだわり

ロジャー・フライがセザンヌ論のなかで、このような言葉を残している。

「・・芸術家の純然たる自己啓示が頻繁に示されるのは静物画においてだからである。

他の主題では、どんな場合にせよ、人情が介入する。・・」

芸術家は何ものかを、いってみれば芸術の種を自分の中に見いだすために、静物を介して手探りし実験し、導き出そうとする。なにを・・それが、生まれ出ずる悩みであり、創造なのである。

これが人物やその他の静物以外のものでは、なるほど、人情が介入する。つまり、相手に気を遣ったり、煩わされたりして本来の物との純然たる会話がなくなると言うことであろう。

そういう意味では、ジャコメッティーと矢内原伊作との関係は特異なものであった。ジャコメッティーは人情の介入を極力排除しようとし、矢内原は自己を静物化することに徹したわけである。

絵画における描き込む行為、描き込むことでさらに内奥に導かれていくわけであるが、写真では同様な過程は、深淵をのぞき込む行為を激しく課すことで置き換えて行くわけである。事象を押し曲げてでも、観念を表出させなければ写真という行為が成り立たない。

絵画ばかりでなく、写真に於いても、と言うより写真であるからなおさら、雑念の介入に気を遣う必要のない静物の撮影は、我々にとって必要欠くべからざるものである。

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