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スチール写真へのこだわり

ロジャー・フライがセザンヌ論のなかで、このような言葉を残している。

「・・芸術家の純然たる自己啓示が頻繁に示されるのは静物画においてだからである。

他の主題では、どんな場合にせよ、人情が介入する。・・」

芸術家は何ものかを、いってみれば芸術の種を自分の中に見いだすために、静物を介して手探りし実験し、導き出そうとする。なにを・・それが、生まれ出ずる悩みであり、創造なのである。

これが人物やその他の静物以外のものでは、なるほど、人情が介入する。つまり、相手に気を遣ったり、煩わされたりして本来の物との純然たる会話がなくなると言うことであろう。

そういう意味では、ジャコメッティーと矢内原伊作との関係は特異なものであった。ジャコメッティーは人情の介入を極力排除しようとし、矢内原は自己を静物化することに徹したわけである。

絵画における描き込む行為、描き込むことでさらに内奥に導かれていくわけであるが、写真では同様な過程は、深淵をのぞき込む行為を激しく課すことで置き換えて行くわけである。事象を押し曲げてでも、観念を表出させなければ写真という行為が成り立たない。

絵画ばかりでなく、写真に於いても、と言うより写真であるからなおさら、雑念の介入に気を遣う必要のない静物の撮影は、我々にとって必要欠くべからざるものである。