個展について
みなさん、今銀座のギャラリー新居で個展やってますよー、ふるってお出かけくださいませ。
ところで、左の新聞の切り抜きは、27日読売夕刊「シティーライフ」に出ていた記事です。ここに使われた写真は、今回の個展作品としては、真っ先に出来たもので、やはり一枚選べといわれれば、この写真が紙面を飾るにふさわしいと今見ても思います。
今回の個展は、実はロダンの「地獄の門」にインスパイヤーされたわけですが、理詰めなところも実はたぶんにあって、ある意味モランディーのビンや坂本繁二郎の能面などの「物感」や岸田劉生のりんごなどにも深くかかわっているといったら、みなさんは冗談だと思うでしょうか。
ただアプローチの方向が彼らと、また後から出てくる人物たちと若干違っていて、対象物を見つめ続けてこれ以上そのものと関わることが出来ないまで、自分の感性を追い詰めてゆく方法をとってばかりいると、そこには緊張感と真剣さだけがあふれかえっていて、いってみれば真剣でのきりあいとでもいいましょうか、いつまでも続けていると疲れてしまうわけですね。
とくに写真なんかでやると、決定的な写像を定着させる瞬間まで訂正を繰り返してゆくわけで(これが絵画とは違うんです、絵画は一点一画ずつその場ぞの場で修正を加えてゆくことが出来き、出来上がったものは言ってみれば修正の塊ですね、ところが写真は固める瞬間まで写真を撮り終える瞬間まで修整し続けるチャンスはあるが、その最後の最後まで果たして実際にこれでいいのか、固めてしまう瞬間の画像なのか、という判断に苦しむわけですが、シャッターを切り終えた後には今までのありとあらゆるものが焼きついてしまいますので、修正のあとなど何にも残らないのです。これは演繹と帰納法のようなもので、優劣をつけるというようなものではない、表現手段であって、結果のよしあしにつながるものではないのです。
それを今回は右から左の一方通行的なアプローチではなく、左から右を見つめる行為があってもいいと考えたわけです。つまりさっき言ったように、劉生の「りんご」にかぶりついて食っちまうアプローチが右から左の一通だとすると、りんごが勝手に変化していってしまうのをりんご側から、りんごの裏から見据えようということなのですね。実際のりんごはほっとけば腐ってしまうわけですから、わざわざ変化をもとめずとも、一週間から二週間ばかりほっておきさえすれば、かってに変化してくれるわけですが、ここで私が言うりんご側からの変化は、これとはちがって、あくまでイメージの中でのこと、自分自身の心からの見え方のこと、そのりんごの変化を写真でつなぎとめようということなのです。
実はさらにここに自画像であるということにもう一枚味があって、変わらぬ自分を変化させる、別の自分、他人にしてしまう。しかもその変化を画像につなぎとめておかなければ、自分自身で変化しましたといっても、他人にはわからないわけですから、実像として残さなければならなかった。
つまり、今回の自画像はそのようにして生まれたもので、ただのブレボケ写真ではなかったというわけです。シンディーシャーマン、ナンゴールデンや澤田さん、森村さんたちが試みた心的、外的な自画像、ポートレートとはちがった私自身の発明した自画像表現が、今回の個展の実は一番言い表したかったことなのです。そして最終的に出来上がったものは、自分が動くことで空間を埋めながら作った立体像で、写真の彫刻だったわけです。
まあそれはそうとして、今回のオープニングの写真が出来たのでアップしておきます。本当に多くのかたがた、先輩諸氏に来ていただき、いくら感謝しても感謝しきれない気持ちで、いまもむねがいっぱいになる思いです。
