久しぶりの休日を楽しむために、伊豆の別荘に行ってきました。一年と何ヶ月ぶりになるでしょうか。山あいに見え隠れする大島桜はいうに及ばず、松崎の桜は時期を若干外したとは言え、十数年前に見た記憶にあるものと同様、市井を流れる中川の左右にそのビロードのようなきめ細やかな花びらを惜しげもなく広げていました。

妻の薦めで、子浦に住む矢谷長治画伯にお会いしたり、磯料理に舌鼓を売ったりして、何日かゆったりとした時を過ごした後、いよいよ東京に帰る日になってはじめて、腰の異常に気がついたのです。不思議にその痛みは徐々にゆっくりとやって来ました。

出がけに最初は「ちょっと腰が痛くなったので、荷物などは持てないかもしれないなー」などと、周囲にも冗談半分でおどけて見せたりしていたのですが、東京まで車に乗って運ばれてみると、いよいよ腰が抜けたようで力も入らず、妻にその足で医者に運んで行ってもらいました。

医者が言うには「ぎっくり腰」のようで、体重を減らし適度な運動に励んで体力をつけていくことがさらなる予防策になるとのことでした。落ち着いたら、生活習慣を変えて、運動など今度は自分自身のために精進することにしようかと考え始めています。

体力気力が減退してくると、自ずと自らの歳について考えざるを得なくなります。写真作家として漠然とですが残された日々について考えることも少なくありません。

エドワード・サイードも晩年の芸術家の仕事の特別な性格について考えていたようで、「老年の窮境は打ち砕くことも乗り越えることもできないが、深めることはできる」といっています。言い得て妙ですが、足腰への具体的な顕著な窮境は、これからさらに窮まってくるでしょうし、目の衰えは生活に関わる重大事ですし、脳の衰えも何となく自覚できる歳になって来た今日この頃、これを深める極意はまだまだ得ることはできなさそうです。

聖書の伝道者の書の十二章にこのような記述があります・・・

「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。災いの日が来ないうちに、また『何の喜びもない。』という年月が近づく前に。

太陽と光、月と星が暗くなり、雨の後にまた雨雲が覆う前に。

その日には、家を守る者は震え、力のある男たちは身をかがめ、粉ひき女たちは少なくなって仕事をやめ、窓から眺めている女の目は暗くなる。

通りの扉は閉ざされ、臼を引く音も低くなり、人は鳥の声に起きあがり、歌を歌う娘たちは皆うなだれる。

彼らはまた高いところを恐れ、道でおびえる。アーモンドの花は咲き、イナゴはのろのろ歩き、ふうちょうぼくは花を開く。だが、人は永遠の家へと歩いていき、嘆く者たちが通りを歩き回る。

こうしてついに、銀のひもは切れ、金の器は打ち砕かれ、水瓶は泉の傍らで砕かれ、滑車が井戸のそばで壊される。

塵は元あった地に帰り、霊はこれをくださった神に帰る。

空の空。伝道者は言う。すべては空。・・・・

結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。

神は、善であれ悪であれ、すべての隠れたことについて、すべての業を裁かれるからだ。」

2007年12月
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